考えてみた
「努力は報われるべきか」と聞かれたら、私は「報われてほしい」と答える。
努力している人を見ると、応援したくなる。スポーツ選手、受験勉強をしている学生、仕事に打ち込む人、新しい技術を開発する人。なぜかわからないが、人が何かに向かって努力している姿には心を動かされる。私は昔から、努力している人に対して「結果が出てほしい」と願ってしまう。
ただ、その一方で、「努力は必ず報われる」とは思っていない。何かを成し遂げるための要素は、努力だけではないからだ。
まず思いつくのは、運や才能である。向いているかどうか、タイミングが合うかどうか、偶然チャンスに巡り会えるかどうか。さらに周囲の環境も大きい。資金力、よい指導者、切磋琢磨できるライバル、練習の場、支えてくれる人の存在。適度なストレス環境も必要かもしれない。
努力は確かに重要だが、努力だけですべて決まるわけではない。
だから私は、自分が努力しているときほど、「努力だけではどうにもならないことはある」と自分に言い聞かせる。そうしないと、結果が出なかったときに、自分自身を全部否定してしまう気がするからだ。
また、努力には「方向性」もあると思う。
努力と聞くと、私たちは無条件に良いものとして扱いがちだ。しかし、努力の先のゴールは健全なのか、努力のやり方は正しいのか、そこは考えないといけない。
たとえば受験勉強を例にすると、「勉強して合格を目指す」は努力としてイメージしやすい。でも、権力者にお金を積んで特別に入学させてもらうことは、たとえ本人が必死だったとしても、正しい努力とは言いづらい。
努力は、「頑張った」という事実だけではなく、「どこへ向かっているか」「どんな方法を取っているか」まで含めて考える必要があるのだと思う。
努力には2種類ある
さらに考えていくうちに、努力って2種類あるなと思った。ひとつは、スポーツ、受験、仕事など、目標に向かって進む努力である。合格、優勝、昇進のように、結果が見えやすい。いわば達成型努力とでも呼ぼう。
そしてもうひとつは、「状態を維持するための努力」、維持型努力と名付けてみる。健康を保つこと、家庭を支えること、毎日働き続けること。こちらにはゴールがない。終わりがなく、毎日の連続で成り立っている。そして私は、後者の努力はかなり過小評価されやすいと思っている。
達成型の努力には、賞賛がある。合格発表も、トロフィーも、数字としての成果もある。
しかし維持型努力は、「問題が起きていないこと」が成果になる。家が回っている、健康が保たれている、生活が崩壊していない。本当は誰かの努力によって支えられているのに、あまりにも日常に溶け込んでいるため、「当たり前」として扱われてしまう。
しかも、維持型努力を頑張る本人ですら、自分が「努力している」と思っていないことがある。毎日のことだから。終わりがないから。でも私は、まずそこを自覚するところから始めたらいいと思う。
維持することも、立派な努力だ。むしろ、終わりのない努力を続けることは、とても難しい。そして、その努力によって、誰かの達成型努力が支えられている。
報われるって何だろう
今度は「報われる」の意味を考え直している。報われるとは、合格すること、優勝すること、結果を出すことだと思っていた。でも今は、それだけでは足りない気がしている。
努力した時間に悔いがないこと。周囲の支えに気づけること。誰かに感謝されること。支えてきたことを認識してもらえること。特に維持型努力にとっては、「ありがとう」や「助かっている」という言葉そのものが、ひとつの報いになるのではないかと思う。
努力は、必ずしも平等には報われない。それでも私は、努力する人が報われてほしいと思う。そして、目立つ成果だけではなく、毎日を支えている見えにくい努力にも、もっと光が当たってほしい。


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